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この火曜日に仕事でとてもショックなことが起こり、もはやどうにもならなくて、まあ仕事という範疇を超えているので割り切るためには本当に割り切るしかない事柄なんだけど、それで日々のこと、思い付いたことをtwitterでつぶやくことへも気持ちが向かわず、あと簡単に言葉にしてどこかのメディアにのせてしまうのってどうなのかということを10年くらい前に今は詩人になった当時の友だちからも言われ、まあそうだなとその時は思ったのだけど、その人の詩が掲載されている雑誌を本屋で久しぶりに手に取ったりする中で、少しずつ考えるようになり、ちょっと溜めないといけないなと思ってiPhoneにメモしていたものを、そこへ書かれた断片について考えてみたいと思い、自分のメールに送った。
ちなみにevernoteを使えばいいんだけど、うまく読み込まないときのストレスが嫌なのでメールの下書きに書いている。 110216 疲れてるってこんな感じかな 責めるのは簡単だ 認識が違うというのは、相手にとっても認識が違うということ。 言われたことが合ってるか違ってるか 正すことをするのかどうか というような事が書かれていて、これはやはりある出来事を受けて、それとどう向き合っていこうかということについて。 16日のメモになるのだけど、ある出来事に対して、多くの人はそれへの対応について前向きに考えられる事柄なのに、その方法を巡って、気に入らないがゆえに咄嗟に反発的な態度を取ったというように聞こえる人がいて、いい事じゃない事の上に、なおいい事じゃない事が起こり、なんでそこで事がうまく進んでいかないのかと考えるのがしんどくて、それでこれが疲れる、仕事で疲れてます的な心境なのかと思った。 それくらいに疲れているなと実際感じたし、自分の関与しないところで解決されたらいいなと思えることもあるんだなと思えた。 いくら、もう1年以上も前から、冷戦的に、もはや相容れないような状況にあるとは言え、この1件に関して、そんなのやめたらいいのに、互いに思うところは一緒じゃないのとか、できるものなら一緒になればいいのにと思えることを、その話の持って来られ方が気に入らないからといって、なぜ、こういうやり方ならどうだろうか、というような提案なり話だったりにならないのか。 嫌なものに対して責めるのは簡単で、それがメモに書いている事なのだけど、もうひとつメモに書いてあることでいれば、正すことをしないのかということで、自分はこうがいいのではないか、というものに対して、それを明かさずに別の道へ進むという解決策を取ってしまうのは簡単なのだけど、その簡単な道を選ぶのってどうなのかということである。 そこで思ったのが、認識が違うと僕が感じたとして、そのときおそらく相手も認識が違うということを感じている。この人とは認識が違うという捉え方と、この人は私と認識が違うと感じているということを感じているの2つがあり、であるなら、認識が違う、から、別の道と流れるのはいい答えではないと思えてしまう。 解決すべき問題と呼ばれるものが地域にはあると言われているのだけど、地域と言ったってそれは人であり、やはり問題は人と人の間の事なんだと思う。 違うことで簡単で別の道を辿っている。 そこまでしないといけないか、解決しないといけないか、目指すところはあるだろうか。 ないのに頑張るってあるだろうか。 # by ka_so_u | 2011-02-17 12:59
そういえばと思い、彼がきちんとブログを再開し書き続けているのをみて、約束めいたことをしたのを思い出し、この文章を書き始めた。
大阪のとある服飾ブランドショップでの話がメインになるんだろうけど、それ以外に中津のとある施設、異世界に間違えて入ってしまったような、ちょっと煙ったような印象を覚えるカオスで天井の高いそれは鉄道の高架下ならではのカフェといわれている場所や、十三の第七藝術劇場であったトークイベントとその打ち上げや質問した話なども現れてくるある日のことだ。 ここまで書いて10日ほどすっかり忘れてしまっていたのをたまたまログインして気付いた。 その日のことへどうすれば話がつながっていくのかわからない中で、ひとまず思い付くのはACOを久しぶりに聴いたことや、twitterのリスト整理をしたことなどで、それからデプレシャンという検索ワードでたまに探してはフォローするというのをやっていて、今朝もそれをした。デプレシャンを好きな人はそう多くなくて、だからそんなことをしても多過ぎてめんどくさいという事もなく、吟味もできて、プロフィールをみるのも小さな楽しみになる。今はそれを生まれ育った地元の名前でやってみてそれをRTしたりとか、そんな形で地元に触れている。 デプレシャンでいえば、いますでにimacには「そして僕は恋をする」が一時停止状態で待機していて、落ち着いて、映像作りの作業に映ったら流してみようと思っている。 今朝は6時前に上司から仕事の電話で起こされて、それでiphoneをいじったり、センの本に線を引いたりしながら9時頃になり、PCへと向かい、youtubeを見、アンゲロプロスやキアロスタミやパルムドール受賞映画などを調べた。 アンゲロプロスは大学時代に見て、少年たちが信号待ちで停車した車の窓を勝手に吹いてはドライバーからお金をもらおうとするシーンがもう10年も忘れられなくて、けどそれ以外に何を覚えているかと言われると特にない。それでもタイトルは忘れたけど、アンゲロプロスの映画はよかったなと、だって監督名やタイトルを覚えていたりするのだからそうなんだろうと思うんだけど、それは1ヶ月ほど前に話をするようになった友だちが「霧の中の風景」を観たんだという話をしてくれて、それで思い出したものだということは書き添えておく。 覚えている事が少な過ぎていやになるけど、わずかにでも覚えている事が拠り所になって人と話をしたり、何かを思い出したりしている。 リズムはつくれると思う。 だからリズムを作っていて、そのこともそのうち忘れて、実際、思い付いたのは昨日のことだけど、早速忘れていたからもはや覚えているかどうかを気にしていてはどうにもならないところまで来ている。論理的になっているかというと、まだそれを保っているような文章で、ただし脈絡はあまりない。 これもリズムだし、志向性ともつながる。 つながるとか、地域活性化とかまちづくりなんて言葉はもうどうでもよくて、持続可能性とかもね、いやな気分になるのだけど、けど、つながるというのはたとえばシナプスだったりの物質的なものがつながることをしているのだから、つながること自体は別にいい事なのかもしれないと思って、ひとつ腑に落ちていた。で、そんな話を新庄村で出会った茂木さんへメールをしたことも思い出した。 それまですっかり忘れていた。 一度は頭から抜け落ちたものが、何かの拍子に思い出されて、それで続いていくのだろう。 「面白い話をして」と言われて、面白い話って何だろうってことを考えてみたり、人に話して面白い話ってあっただろうかとか考えてみたりしても始まらなくて、大学生の頃、大学の図書館の人工知能のコーナーにあったロジャー・C・シャンクの「人はなぜ話すのか」を思い返したりしたけど、どういう内容だったのかはあまり思い出せない。 で、思い出せるのはタイトルだけで、目次すら頭に入ってないけれど、そしたら目次だけでも頭に入れるようにすれば少しは違ってくるのかもしれない。 面白い話は自分にとって面白い話をしたらそれでいいというのが結論。 買った緑のリュックサックの話は、やっぱり上手くかけそうにないし、そこへ届かなかったので残念。 # by ka_so_u | 2011-02-04 00:32
技法以前という名前の本がある。
その話以前の部分が、という言い回しをすることもある。 興味があるのは、いまとつながりのある以前のこと、それはメタな捉え方かもしれないけれど。 # by ka_so_u | 2011-02-04 00:21
2月3日、節分。
今日は仲良くしていて、気にかけてくれている市議会議員さんの選対会議に初めて参加した。 そこで話されたことは、署名=得票ということ。 そんな話を聞きながら思ったことは、 なんだか、選挙活動に関わっているということ自体のイメージがどうなのかということ。 署名をもらう=投票してもらうくらいの勢いであり、それってなんだかなあと思う。 まずすべきは、選挙に関わるというムードや気持ちを作っていくことであって、それをやれた人の貢献度というのは相当なものなんだろう。 要は、あの人とこの人、どちらにしようかという気分が生まれて初めて、選ぶ=署名するということではないか。 それ以前に、署名をお願いするのは手順として早い。 いきなり協賛金をくださいというようなものだ。 名前を書くことは簡単であるが、重みを持っている。 選ぶことはその選ぶ人の名前を書くことだけど、署名をもらうのは書く人の名前をもらうこと。 名前を書くことの意味、人を選ぶことの意味、選挙に携わることの意味を思う。 で、なんだか気分も乗らなくて、終わってさっさと帰って洗濯したり、部屋を片付けたり。 いっそのこと、もう転勤前で引っ越し準備をしているよという気分だったけど、それはここに書くに留める。 それで今夜試みたのは、たとえば10冊の本をそれぞれ1ページずつ読むって読書。 どうせ1ページで終わらなかったりするんだ。 まだ2冊めなんだけど、結局本から何を受け止めるか、感じるかということになってくると、たとえば読みたいなと思って手に取った2冊は小説と日記なのだけど、いずれもその1ページの中に5人とか10人とかの人の名前が出てきて、それを自分と結びつけるとか、その世界に入っていくには、ほんの1ページを読んだだけでは全然無理だし、やっぱりそれなりの時間がいるんだな。 # by ka_so_u | 2011-02-04 00:05
書いたものを読み返すことをほとんどしないのだけど、それはとても致命的なことであり、なにがしかのことを買いていこうとする場合にはいよいよ大変だ。
自分が書いたものを読まない理由を考えてみた方がいいと思っている。 あと、結局どうなるのがいいのだろうというのが決まらないし、言い切れないし、ただその中でもどうするものかと考えないといけない。 自分でオリジナルに考えていくよりも、回りの人が考えてくれたことをうまくやっていくことを考えるのでもいいんじゃないか。 # by ka_so_u | 2011-01-28 01:05
言葉を返すというけれど、返しているのは言葉ではないんだろうな。
で、言葉を返しそびれることで、言葉ではないものを返しそびれてもいる。 その事態って、すごく堪えていて、もはや言葉すら返せなくなってしまう。 やりとりされているものはなんだろうか。 時間とともに失っていっているものがある。 # by ka_so_u | 2011-01-26 22:22
あんまり何かを思うということはないのだけど、その日にやろうと思っていたことができなかったり、しばらくちゃんと本を読めていなかったりすることは鈍く心に響いてきて、それでもやれない自分というのを、ほとんど意識しないようになってしまっている。
ただ鈍い。 説明をする言葉が必要な場面というのはよくあって、その説明というのがとても面倒くさく感じられるのだけど、それもいつか巡り巡ってちゃんと書いておけばよかったと思う時がくるものであって、ただそうはいっても、じゃあすぐにいつもちゃんとできるかと言えばできない。 こうして無理矢理に言葉を並べてみたところで、考えて紡ぎだした言葉ではないから、さして愛着が生まれるわけでもなく、ちゃんとしないといけないなと強く思うわけでもなく、本当に言葉がここに埋められているだけのように感じてしまう。 ちゃんとするというのはどういうことか、というのはここまで書いてきてふと思ったことであって、大体こんな具合に書かれていたり発せられたりする言葉は出てきているのではないかと思えてくる。何かしら伝えたいことがあるわけでもなく、何とはなしに書かれた言葉というところから、抜け出ることができればいいなと思うのだけど、そこまで頑張る必要もない気がする。 島でやっていることや、映像としてちゃんとしたいということは、言葉ではない形で示されていくものなので、言葉を連ねるということはそれとしておいといて、考えないといけないことを考えたらいいのだと思う。 書いていくうちに、これは大切にしないといけないなあという感覚が生まれてくるのかもしれない。その感覚が出てこないうちは、やっぱり何やら言わされているような、ただ書いているだけであるような、そんな気分は拭えない。 # by ka_so_u | 2011-01-26 22:06
これか、とうまく落とせたデザインというのがあるなと思うように、これだ、と思える文章もきっとある。
文章の場合はどんなまとめりで、それを考えるのかという話にはなるけど。 1冊なのか、1ページなのか、1文なのか。 いかように書きますか。 話をしているときは、いい感じで話してるという実感を伴うことがあるけれど、書き物でそれってあるのかなとも思う。 いいな、と思えるのって何? # by ka_so_u | 2011-01-20 01:50
01月19日の夜、劇団維新派の過去作品の上映会をした。送料込みで5500円ほどしたもので、01月05日に飲んだときに薦めてもらった「ROMANCE」という作品である。
カフェのスペースを無料で貸してもらい、料金ももちろん無料にして、あとは飲んだり食べたりを自由にしてくださいということで上映をした。 そんな上映会をすることになったきっかけは、先のブログを書いている人とのちゃんとした出会いである。 読むと何かしら言葉が出てくるような読み物が好きだ。 彼のブログはまさしくそういう類いのものであるなと感じたたために、そう思ったことを記しておこうと思って、たちまちこのブログを書き始めた。 今夜の情景を言葉にして記すには、それは相当な集中力を持って言葉にしていかないといけないことは容易に想像がつく。 ただ、彼とほぼ初めてな状態で5時間半をぶっ続けで語ったときのことを思い起こせば、相応の力を注ぎ言葉にしたものは、その時の大変さを超えて、ずっと意識の中に残り、ことあるたびに参照可能な状態として残っているのではないかと思わずにはおれない。 なんだか、こうして書いてる文章も、ただ流れに任せて思い付くままに書いているだけで、こんな文章ならばほとんど書いても意味のない、頭も使わない、ただ埋めているようなものじゃないかと思う。 文章を書くことは、デザインすることと同じようなもので、自分が作ったものを何度も見直し細部に至るまで吟味している。それが文章になった途端、自分で書いたものにそれほどまでの愛着をもつでもなく、ただ何となく書いてしまっている。 本当に読み返さなければならないのだと思う。そうして、何度も推敲したものだけが、自分から出してもいいと思えるものになる。 今夜の気付きといえば、自分がこの文章で本当に納得するのかをいつも検討した方がいいということ。自分の中から出してしまっていいのかということ。 デザインしたときに訪れる納得感みたいなものがどうすれば現れるのかなんてことを思う。 # by ka_so_u | 2011-01-20 01:37
2010年に見聞きして触れたものを、そのままにして2011年が始まった。
それは自分がやっているプロジェクトに関しても同じで、1年の締めも、新年に向けた抱負めいたものも更新されていない。 年の瀬も近づき、本のイベントをやろうということで集まった3人の会話で、やりたいことはこれまで自分がすでに見聞きしたものをどうまとめておくのかということだった。 ブックイベントとして始まったものは、メモイベントへと名前を変えた。 1年が終わろうとしていることや、新年を迎えるということ、それに伴って振り返ったり新しい何かを考えたりするために、これまでに触れてきたものを整理して、それを押さえておきたいという思いが生まれるのではないかと思う。 それでまとめる。 まとめるためのネタは集まっていても、まとめる機会は少ない。 せっかくまとめるのだから、余すとこなく再確認しておきたいのだろう。 # by ka_so_u | 2011-01-19 00:21
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